三島由紀夫

 拒みながら彼の腕のなかで目を閉ぢる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、こころもち持ち上つたのが、歔欷のためか微笑のためか、彼は夕明りの中にたしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んできらめく歯の奥にあるのだらうか?  清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなによからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。  唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の香りの立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい髪油の匂ひと夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、けば立つた羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、底深くほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵してゐた。  清顕は突然、聡子の頬が涙に濡れてゐるのを知った。彼の不幸な探求心が、それを幸福の涙か不幸の涙かと、いちはやく占ひはじめるが早いか、彼の胸から顔を離した聡子は、涙を拭はうとはせず、打ってかはった鋭い目つきで、些かのやさしさもなしに、たてつづけにかう言った。 「子供よ! 子供よ! 清様は、何一つおわかりにならない。何一つわからうとなさらない。私がもっと遠慮なしに、何もかも教へてあげてゐればよかったのだわ。ご自分を大層なものに思っていらしても、清様はまだただの赤ちゃんですよ。本当に私が、もっといたはつて、教へてあげてゐればよかった。でも、もう遅いわ。……」  言ひおはると、聡子は身をひるがへして幕の彼方にのがれ、あとには心を傷つけられた若者がひとりで残された。  何事が起ったのだろう。そこには彼をもっとも深く傷つける言葉ばかりが念入りに並び、もっとも彼の弱い部分を狙って射た矢、もっとも彼によく利く毒素が集約されてをり、いはば彼をいためつける言葉の精華であった。清顕はその毒の只ならぬ精錬度にまづ気づくべきであり、どうしてこんなに悪意の純粋な結晶が得られたかをまづ考へるべきだった。  しかるに胸は動悸を早め、手はふるへ、口惜しさに半ば涙ぐみながら、怒りに激して立ちつくしてゐる彼は、その感情の外に立って何一つ考へることができなかった。彼にはこの上、客の前へ顔を出すことが、そして夜が更けて會が果てるまで平然とした顔つきでゐることが、世界一の難事業のやうに思はれた。